ちゅんだーは地上へ落下中、そして考える。

医学部受験に6年費やしても不合格した人。腐らず、マイペースに生き抜くのみ

センター試験を受ける人へ。

センターついにセンター試験が始まる。

大学近くの予備校の前で、緊張と不安で混じった顔で話しあう浪人生たちや、近くのスーパーに置いてあるゲン担ぎのお菓子を見ると、当時の事を思い出してとても感傷的な気分になる。

だから自分はもう試験を受けることはないのに、なんだか落ち着かない。

 

僕でさえこんな気持ちになっているのだから、受験生たちの心は今頃、不安と緊張で溢れかえっているだろう。

 

もし、この記事を読んでいる珍しい受験生がいるなら、ちょっとしたアドバイスを送りたい。

 

僕は今までに合計7回も、センター試験を受けてきた。

「人生で最後のセンター試験だ」と毎回思いながら、結果的にこんなに受けることになるとは、当時は思いもしなかった。

僕にとっては明るい過去ではないけれど、それでも7回分の試験の記憶は今でもはっきりと覚えている。

 

合計の得点が9割を超えてガッツポーズした年もあれば、ひどい結果になって途方に暮れた年もある。

このように、その年その年で違った経験をして、様々な感情を感じたのだ。

 

しかし何度センター試験を受験しても、「不安」と「緊張」だけは、常に感じてきた。

 

今年センター試験を受ける人がいるなら、今頃緊張で震えているかもしれない。

「当日失敗したらどうしよう」とか「もっと勉強しておけば」とか考え、不安になっているかもしれない。

 

でも。大丈夫。それはほとんど全ての人が感じている。

 

 

だから、それらの「不安」と「緊張」を抱えて、センター試験に全力で挑んで欲しい。

 

 

ダークな魔法学園ファンタジー「七つの魔剣が支配する」感想

「 

 

率直に言って、かなり面白かった。

作者は前作「天鏡のアルデミラン」で、精霊と呼ばれる生命が存在する世界を舞台に、大河ドラマのような骨太の戦記物を書いていた。そのため本作の面白さは読む前から分かってはいたが、それでも予想よりずっと面白いと感じてしまった。

物語はハリーポッターのような魔法学校を舞台に、剣と刀によるアクションをプラスした学園ファンタジーだが、実際にはかなりダークな話に仕上がっている。

一見華やかな魔法の裏には邪悪な魔道が存在しており、それと対応するように、仲間たちとの友情にフォーカスした学園物語と、暗い復讐の物語が進行する。

このように物語の面白さだけでも満足だが、本作をより面白くしているのは登場する人物がみな魅力的だという点だ。

主人公のオリバーは数あるライトノベルの中でもかなり好印象な主人公であり、またヒロインのナナオも竹を割ったかのような素直な性格でありながら、実は死を求めてしまう二面性がある。

そして主人公たちの仲間はもちろんのこと、彼らと敵対する人物もみな魅力だ。

主人公たちに対して敵意を向ける同級生や、今作での事件を起こした首謀者も、単純に「悪い奴」として書くのではなく、その言動に至る理由や思いを書くことで、憎めない人物になっており、また彼らと主人公たちとの衝突を通して、関係が良い方向へと変わっていく場面はとても感動する。

1巻ではまだまだ序章と言った感じであり、次巻からより中身が濃くなっていくと思われるので、とても楽しみな作品だ。

 

2018年 このブログについての思いと今後の方針について

こんにちは。

突然なのですが、このブログができた経緯と、今後の方針について書いてみようと思います。

 

このブログは当初、浪人時代の苦しさや、将来に対する不安、そして医学部を諦めた今の心境を一度は文章として残しておこうと思い、作ったものです。

そのため、その当時の僕の経験や感情を最初の記事に可能な限り書いてしまった後は、とても満足してしまい、その後1年間も放置してしまいました。

 

ところがある日。なんとなくGoogleで「医学部 諦める」と検索したところ、ページの一番上にこのブログの名前がありました。

とても予想外だったため、かなり驚いたのを覚えています。

また同時に、僕の今までの経験や知識が少しは誰かの役に立てるのかもしれないと思い、このブログを定期的に更新してみることにしました。

 

ただ、僕はかなり能天気な性格のため、今まで物事を深く考えるということをしてきませんでした。そして文章を書くということに慣れていないということもあり、自分でも底の浅い内容の記事しか書くことができないと感じ、ここ最近はブログから遠ざかっていました。

 

しかし、いろいろと考えてみた結果

「今の時点で僕が深く考えることができないのも、文章に慣れていないのもしょうがない。このブログを更新しつつ、自分も成長すれば良いんじゃないか??」

という、まあ単純な結論に至ったため、自分のペースでブログの更新をしようと思います。

 

またこのブログを読んでいただいてる方々のコメントは全て読ませてもらっています。

中にはかつての僕と同じ境遇の方からのコメントをいただくこともあり、今後の成功を祈るような気持ちで応援しています!

コメントに返事をしたい気もあるのですが、ブログ内で返事をするのは少々恥ずかしいので、近いうちに連絡用のメールアドレスやTwitterのアカウントを作るつもりです。

 

これからもコツコツと更新していきますが、よろしくお願いします!!

夢と現実の間で大号泣する僕  映画感想「ラ・ラ・ランド」

偶然アマゾンプライムにあがっていたのを発見し、今更ながら視聴。

 

 

ミュージカル映画は一度「レ・ミゼラブル」を見た際に、あまりにも退屈だったので、それ以降は積極的に見ようとは思っていなかった。

しかし、ララランドは話題にもなった作品だし、無料で見れるのであれば序盤だけでもと思いみたのだが・・・

 

自分でもドン引きするぐらい、感動のあまり泣いてしまった。

 

 

夢か現実か

この映画のテーマの1つに「夢をかなえるために報われるかわからない努力するか、現実を見て妥協するか」というのがある。

僕にとってこのテーマは自分の過去を思い出してしまうから、心に刺さってしまう。

 

この映画には夢を追いかける2人の主人公がいる。

一人は古き良きジャズを演奏する店を持つことを夢見るセブ。そしてもう一人は女優になるという夢を持ち日々オーディションに挑戦し続けているミア。

2人は夢を叶えるために努力しているのだが、なかなか報われることがない。

だから物語の途中で、セブはお金のために求めていた物とは違う音楽を演奏することを決め、そしてミア女優になることを諦めてしまう。

 

物語の途中、女優になるという夢への自信や期待がすべて打ち砕かれ、夢を諦めると決めた時に言った

 

「傷つきたくないの!!!!」

 

という言葉は、夢に向かって努力しても、多くの挫折を経験した人なら1度は思ったことがあるはず。

 

夢を叶えるために努力する過程ってのは、多くの人が美しいコトのように言うけれど、真剣であればあるほど、とても辛くて苦しい体験になる。

 

僕の場合も挫折の連続だった。それでも何度も頑張って努力したけれども、最後には「傷つくこと」に耐えきれなくなって夢を諦めてしまった。

 

だから彼女の夢と現実との間で押しつぶされる苦しみの中、吐き出したこの言葉にとても共感できたし、彼女の苦しみを思うと、つい泣かずにはいられなかった。

 

現実を知っても

この映画を見て思ったのは、「夢」とは劇薬みたいなものということだ。

夢を叶えるためにする努力は、僕たちを成長させてくれるし、なにより夢を追い求めている期間は、自分の人生を生きているんだという実感がある。

 

しかし、もし夢が叶えられなければ、待っているのは圧倒的な現実だ。

費やした時間やお金を惜しみながら、現実を生きないといけない恐れだってある。

 

だから僕は、夢を叶えるために努力することを美化する風潮に、あまり同意することができない。

 

しかし、だからこそラ・ラ・ランドの主人公の2人が、現実を知って苦しんでなお、夢を追い求める姿に尊いものを感じた。

 

またかつての自分のように、夢に向かって努力してもいいんじゃないか。

そう思えるような、映画だった。本当に見て良かった。

 

 

孤独な浪人生が得ることのできる3つのメリット

 

先日、このような以下のような記事を書いた。

tundernation.hatenablog.com

 

確かに浪人生活において友達がいることにはメリットがある。

しかし実際には、様々な理由から、多くの浪人生は一人で孤独に勉強している。

 

僕の場合も、浪人を続けるにつれて、医学部に合格したり、逆に諦めて別の学部に行くなどの理由により、最後には周りから友達はいなくなり、最後にはいわゆる「ぼっち」で勉強を続けていた。

 

最初は孤独に勉強することが心配だった。浪人という苦しい時期をたった1人っきりで過ごすことができるのだろうかと思ったからだ。

しかし、最初は恐れた「孤独」だが、だんだん時間が経つにつれ、その状況にメリットを感じるようになる。

 

そこで浪人をする上で、友だちを作らずに孤独に勉強をするメリットを、僕の経験をもとに説明したいと思う。

 

1 浪人生にとって最も重要な資源は「時間」である。

 この限られた時間をどれだけ効率的に利用することができるかどうかで、大学合格の可能性が大きく変わってしまう。

そして「友だち」という存在は、この「時間」という資源を必要以上に消費してしまう要素となる恐れがある。

 

まず 当たり前のことだが、人によって勉強のやり方やペースが異なる。

例えば僕の場合、朝が最も集中できるが、逆に昼はまったく勉集中できない体質だった。そのため朝の5時に起きて、昼になるまでに重要な範囲の勉強を終わらせるという具合で1日を過ごしていた。

逆に、僕の友人の1人は、朝が弱いため午前中は勉強に全然集中することができなかったが、時間がたつにつれ集中力を増していき、夕方にもっとも集中することのできるタイプだった。

もし僕が昼に勉強の息抜きのため、彼のところにいったらどうなるだろう。

彼はとても人が良いため僕に付き合ってくれるだろうが、実際には彼は僕のために貴重な時間を犠牲にすることになる。

 

また逆の場合もある。

もしあなたが勉強に集中して、いわゆる「ノッている」状態のときに、友だちから息抜きの誘いがきたらどうするだろうか?

あなたが強い意志をもって拒否することができるなら問題はない。しかしそうではないなら、貴重な時間を無駄にすることになる。

 

2 無駄な人間関係の問題に悩まされない

浪人して驚いたが、浪人生の間での「人間関係」の問題は非常に多い。

浪人して予備校に入学する前は、全ての浪人生は大学合格のために全てを犠牲にして誰とも関わることなく、ひたすら勉強をしていると思っていた。

しかし実際には良くも悪くも、多くの浪人生が高校と同じように、特定のグループに所属し、そこでの人間関係で繋がって毎日を過ごしているのだ。

 

そのため、人間関係の問題の話題が常に絶えない。

 

例えば、当時僕が仲良くしていた年上の浪人生が、一人の女子と喧嘩したことで、予備校の多くの女子からの強いバッシングを受けることになり、その結果予備校を辞めることになってしまった。

また別の浪人生は、同じグループで仲良くしていた友人が、裏では本人の悪口を言ってることを聞いてしまい、それにより精神を病み、大学入学後も定期的に病院に通うほどの鬱状態になったこともある。

 

これらはほんの一部の例であり、ほかにも考えられないほどのドロドロした事件が多くあった。

 

そもそも、浪人生はとてもストレスを感じやすい環境にいる。

 

今後の人生を左右する大学受験という大一番に臨むストレスは計り知れない。そんな中で人と深く関われば、自分と他人を比べて必要以上に落ち込んだり、またストレスが原因で友達のささいな行動や言動に過敏になることで、さらなるストレスを生みだす悪循環に陥る可能性もある。

浪人する以上、勉強のストレスを感じることはしかたのないことだ。

そのため、人間関係によって生じる無駄なストレスをできる限り避けるべきである。

 

3 自分と向き合う機会を与えてくれる

そして「孤独」は自分自身について考える機会を与えてくれる。

先日、ある番組で有名講師の林先生が「孤独」について語っていた。

 

「友達は少ないほうがいい」林修が孤独の素晴らしさ熱弁「孤独が嫌という人は本をあまり読まないことが多い」 livedoor NEWS

 

 林先生の言う通り、「考える」という行為は孤独にならないとできない。

実際に自分が浪人となり、さらに地元を離れて1人きりで浪人をするようになって、初めて真剣に物事について考えるようになった。

そのときの孤独な状況は僕にとって辛い経験だったが、そんな経験をすることで初めて心の底から思っていること、そして今までの生き方について真正面から見つめて、考えることができた思っている。

 

大学生になった今では、浪人していたときよりずっと毎日が楽しく、満ち足りた生活をしている。

しかし浪人していた時より、物事を考える機会がずっと減ってしまったのも事実だ。

 

だから、もしあなたが一人で孤独に勉強している浪人生ならば、その辛さや苦しみは充分にわかる。かつての僕もそうだったから。

でも、人生においてそこまで「考える」ことのできる機会はめったに存在しない。

 

4 まとめ

以上が僕の経験上、浪人生が「孤独」に勉強するメリットだ。

正直な話、孤独という状況は浪人生にとって最も効率的な勉強法を作り上げやすい環境であり、また孤独を経験することで人間的に確実に強くなる。

 

だからもし、あなたが浪人生でたとえ友達がいなくても、心配ない。

その機会を十分に利用して、受験勉強を頑張って欲しい。

 

 

 

東京医大の不正な点数調整で思い出す最大のトラウマ

東京医科大学での女子受験者や3浪以上の受験者に対する不正な点数調整が問題になっている。

このニュースを聞いて、怒りが抑えきれない人も多くいるだろう。

特にこの大学を受験をしたことのある人や、その関係者の怒りはさらに激しいと思う。

 

しかし僕の場合、このニュースを聞いて心に生じたのは「怒り」ではない。

「点数調整なんて、普通にやってるよな」というどこか醒めた感情だった。

 

なぜなら僕も、過去の医学部受験で、この点数調整での不合格と同じぐらい理不尽と思える経験をしているからだ。

 

だが経験した理不尽というのは、東京医科大学のような「不正」な手段による不合格ではない。

それどころか、文句の言いようがない「正当」な手段による不合格だ。

 

しかし、僕はその「正当」な手段によって、浪人生活で最大のトラウマを植え付けられることになる。

 

 

その「正当」な手段とは何か。

 

 

それは「面接」だ。

 

 

面接点

 医学部を受験した人ならわかると思うが、全ての国公立大学の医学部受験には面接が設けられている。

 

大学によって面接の合格に与える影響は異なり、例えば筆記試験と同じように面接自体に点数を課す大学もあれば、医者を目指すうえで最低限の人格を有しているかを確認するだけの大学もある。

 

当時、僕が志望していた大学の面接には点数が存在した。

しかしその面接点は、センター試験と二次試験で十分に点数を取り切れば、影響がないほどの点数だったため、そこまで注意を払ってはいなかった。

しかし、突然思ってもみなかったことが起こる。

 

 

 それはその大学が、ある年度から面接点に200点を課すようになったことだ。

 

 

何故このように面接点の比率を上げたのか、僕には詳しい理由は分からない。

 

しかしこの「200点」はどう考えても、僕のような多浪の受験者に対するハンデのように思えてならなかった。

 

つまり大学側が面接点を利用して、現役生やまだ1年2年目の浪人生に大きな点数を、逆に僕のような多浪の受験者に低い点数をつけることで、多くの若い受験者を合格させようとする企みなのではないかということだ。

 

この面接点の変更を受けて、当時の僕は志望大学の変更を考える必要に迫られた。

現役のころからの夢だった大学だ。ずっとその大学に合格するために勉強してきたのだ。どうしてもその大学を受験したい。

しかし、この200点という面接点は受験をためらうには十分な点数だ。

でも、もしかしたら、勉強ができるだけの、あきらかに医師として不適格な人を落とすためだけの点数という考えかもしれない。

 

「どうしよう。どうしよう。どうしよう・・・」

 

この時は本気で悩んだ。

とにかく大学側の意図がわからなかった。一体何故こんなことをしたのか。

僕にも他の浪人生にも、そして塾の講師にもその意図がわからなかった。

 

そしてついに、不安と希望で揺れる中、僕は決断した。

 

第一志望だった、この大学を受験すると。

 

 

そして面接へ

受験することを決断したからには、面接対策を十分にやる必要がある。

そのため地頭の良くない頭を必死で使いながら、僕は早い段階から、面接に向けてできるかぎりの努力をした。

その努力のおかげか、その年の冬になるころには、自分の中で面接に対してちょっとした自信すら身についているほどだった。

 

そしてセンター試験、二次試験とまずまずの手ごたえで終えた僕は、問題の面接へと挑むことになる。

 

面接室に入った僕を待っていたのは2人の面接官だった。

 

面接点が200点もあるからには、厳しい面接が待っていると予想していたのだが、意外にも面接は穏やかな雰囲気で進み、特に何の問題もなく終わった。

 

「何故医学部に入りたいのか」「何故この大学を受験したのか」

 

面接においてスタンダードな質問を問われ、それにしっかり答えることができ、またそれ以外の雑談も穏やかにできので、内心とても拍子抜けだった。

 

「これは多分大丈夫だな」

そう思った僕は、面接が終わった後は、それ以上面接については考えることもなくなり、今度は後期試験の勉強へと集中することになる。

 

そして後期試験の対策をしながら過ぎていく日々。ついに前期試験の結果発表の日がやってきた。

 

祈るような気持ちで前期試験の結果を確認する。。

 

しかし、僕を待っていたのは、「不合格」の3文字だった。

 

 成績開示

「まだ、努力がたりないのか・・・」

これで何度目かの不合格。

数年間も努力して、努力して、努力しても届かない「医学部合格」

 

先の見えない、泥沼にはまり込んだような状況に、僕は心の底からみじめな気分だった。

しかし、それでも医学部を諦めきれない僕は、また次の年も再度受験に挑戦することを決意する。

次こそは絶対に医学部に合格するという覚悟を抱きながら。

 

だが、そんな覚悟を打ち砕くほどの事実を僕は知ることになる。

 

 

それはある雨の日のことだった。

その日は受験した大学の入学試験個人成績開示が始まる日。

 

「自分が二次試験でどのぐらい点数を取ったのか早く確認してみたい」

 

不合格ではあるけれでも、早く確認してみたいという気持ちで、僕は不安と緊張を感じながら、大学の入試課窓口へと向かった。

そして手渡される、個人成績が入った封筒。

急いで入試課を離れ、近くの建物の玄関で雨を避けながら、僕はその場で封筒を開いた。

 しかしそこには僕の予想を超える事実が書かれていた。

 

最大のトラウマ

成績開示の紙に書かれていたいのは、合格最低点を大きく下回る僕の合計得点だった。

 

意味がわからなかった。何故ならセンター試験でも二次試験でも手応えはあったのだ。こんなに低い点数をとるはずがなかった。

混乱しながら、合計得点の内容を確認する。

すると、ある一つの項目が目に入った。それは面接点。

そこにはこう書かれていた。

 

 

 

 

面接点  30.0/200.0

 

 

 

 

「・・・何これ?」

最初はその数字が理解できなかった。その点数の意味がわからなかった。

しかし、少しずつ理解できるようになってくる。

 

つまり僕は面接点で200点中、たったの30点しか取れなかったという事実を。

 

その事実を理解した時、僕の心はポキッと折れた。

何故なら面接点が30/200ということは、これ以上にない明らかな形で、大学が僕の医学部合格を拒絶したのと同じことだからだ。

そして今まで僕が必死にやってきた努力、そして合格への思いが否定されたからだ。

 

その後

後に知ったのだが、その年に受験をした現役生や1浪2浪の受験者の面接点は高く、そのうちの結構な人数が満点の200点を取っていたらしい。

そして僕と同じ多浪生は、軒並み面接点が低いことも判明した。

 

この経験から、あまり信じたくないが、あることを思うようになった。

 

それは「面接を利用して多浪を不合格にしているのではないか」ということだ。

 

しかし実際、どのような意図でこんな面接点をつけられたのかわからない。

 

僕が多浪だったからかもしれないし、単純に医学部に入るには不適格と判断されたからかもしれない。

 

ただ今でもこの経験は、僕にとってのトラウマとしていまだに残っている。

 

 

東京医大の事件について

僕の経験したこととは違い、今回の東京医大の件は完全な不正行為だ。

行為に至った背景には様々な理由があったのだろうと思うが、どんな理由があっても不正に点数を調整することは許されることではない。

 

この点数調整により理不尽にも不合格になった受験者の痛みは、かつて僕が受けた痛みに似ている。

 

とても理不尽で、悔しくてたまらないが、不合格という事実を白紙に戻すことはできない。

 

だから僕はただ祈るだけだ。

この事件で人生を狂わされた彼女たちや彼らが、理不尽を乗り越えて、また自分の人生をしっかり生きれるようにと。

 

 

 

どのようにして僕は大学での「年の差」問題を乗り越えたのか。

6年という長い浪人生活を経て、僕は大学へと入学した。

浪人の時に思い描いた理想の大学、学部ではなかったけれど、それでも晴れて大学生という身分になったことで、少しホッとしていた。

しかし、大学に入学した直後に、とある事実に気づいてしまう。

 

「・・・あれ?みんな僕より若くない?」

 

そう。それは周りが自分より年下という事実である。

 

浪人だったころは、自分と同じ年齢の人はもちろん、自分より年上の浪人生がいることはとても普通のことだった。

そのような環境に6年間もいた自分にとって、自分より年上が全然いないという現実に慄くばかりであった。

 

そんな「年の差」の問題に直面した僕だが、今では上手くクラスの友人たちとなじんでいる.。

多浪して大学に入った人が、どうやって年下の同級生たちと仲良くするのか、僕が実際やったことを書いてみる。

 

 

「年上なんだぞ」というプライドを捨てる

まず「自分はみんなより年上だ。だから敬意を払え」といったプライドを真っ先に捨てた。

そもそも日本の大学で、20代中頃の年齢で大学に入学する人は少数派だ。

そんな状況で、年上という理由で威張ったら、確実に避けられるのは確実である。

 

 

たしかに、自分より何歳も下の同級生からため口で話されると、最初は少しとまどってしまった。

しかしそれは彼らにとっては、同級生と話すような感覚で話しているのであって、決してバカにしたり、下に見ているわけではないことが今ではわかっている。

たまに例外もいるのだが・・・

 

 

自分が年上だからと気負わない

 また年上だからといって「年上らしく、立派な行動をしなきゃ」と気負う必要もまったくない。

無理して自分の性格とは異なった行動をしても、相手に無理をしているのが伝わってしまうし、なにより自分がとても辛い。

 

僕の場合も、最初は年上らしく「頼りがいのある年上同級生」というポジションに収まらなければいけないじゃないかと、勝手に思ってしまった。

だから入学当初は頑張って、頼りがいのあるところを見せようとしていた。

しかし、本来の性格が「超マイペース」かつ「弟気質」である。

 

すぐに無理だと判明した。

 

それからは自然体でみんなと接することにしたにしたのだ、今では「すごいポンコツ、「異常な天然」「私の弟より弟みたい」と言われるぐらいになじんでいる。

 

年下でも先輩は先輩として接する

そして「年の差」問題はサークルや部活にも関係してくる。

 

それは先輩なのに年下という状況である。

 

しかも僕の場合だと最高学年の先輩なのに、自分より年下という場合が普通にある。

そんな中、一つの葛藤が生まれる。

 

先輩(年下)に奢られるべきなのかということだ。

 

正直に言って、奢ってもらえるのはすごくありがたい。

何故なら僕は金のない苦学生。お金のことでいつも悩んでいるからだ。

しかし、それでも年下に奢らせているという、言い難い罪悪感に気が引けるような思いをしていた。

だがある日、部活の先輩(年下)から

「年齢なんて関係ないよ。後輩なんだから奢らせてくれ」

というかっこいい言葉をいただいた。

 

その日から、めちゃくちゃ奢ってもらっている。

 

こんな感じで、たとえ年齢が下であろうとも、大学の先輩であるならば、素直に奢ってもらおう。

年下でも先輩は先輩である。

 

まとめ

以上が僕が実際にやってみた、「年の差」の問題で意識したことである。

もしあなたが孤高の大学生活を過ごしたいのなら話は別だが、みんなと仲良くしたいと思っているのなら、年上という事実をあまり意識せずに、自然体で接することができるのであればだいだい大丈夫だ。